一般社団法人 全国個人事業主支援協会

COLUMN コラム

北陸の話題が続くんですが。Xでの投稿でバズっていたもの。
150年前は石川県や新潟県が都道府県トップの人口を擁していたというのは、確かに事実ではあったりするわけです。
その主な要因は、ロジが当時は海運・水運が主力だった、というのがあります。

まず、日本海側はとても「静かな高速道路」だったという事実。日本海沿岸は昔の船にとっては瀬戸内海と並んで重要な航路で、能登半島はその中継点。奥州(東北)からの産物、加賀藩の財力、京都・大坂へのルートが結びついて、小さな地図上の位置よりもずっと太った経済血流が流れていた。

交通革命前は陸路がほとんど役に立たなかった。鉄道もない、舗装道路もない。山脈は巨大な壁だったので、「陸で行ける範囲」よりも「海でつながっている範囲」が都市の影響圏を決めた。石川・新潟・愛媛・鹿児島など海に連なる地域が強いのは、まさにその要因。

このプリントはまさに、日本が近代化する“前夜”に撮られた一瞬のスナップショットであること。のちに鉄道が敷かれ、東京・大阪が吸い上げる構造が完成するまでの束の間、日本は「海の国」としての姿をまだ濃厚に残していた。

では、太平洋側、江戸そして東京はどうだったのか。

まず、太平洋側は風も波も手強い。黒潮は巨大な高速水流で、江戸時代の船では逆流するようなもの。港も深くなく、外海のうねりがそのまま押し寄せる。たとえば現代なら横浜は大都市の心臓部だが、昔なら置いておくと沈むリスクが高い物流拠点だった。穏やかな瀬戸内海や日本海のほうが、航路としては明らかに優秀だった。

人力・馬力では、山脈も湿地も川も巨大な障壁になってしまう。大きな川──関東だと利根川、荒川、相模川──はむしろ「都市形成を阻む溝」だった。橋が少なく、氾濫し、河川敷は都市を削り取る。

そして江戸の人口は“瞬間最大風速”にすぎなかった。200〜100万人規模の世界都市ではあったんだけど、それは幕府の政治機能と参勤交代による人間の強制集積が生んだ「政治的バブル都市」。周囲のインフラが貧弱すぎて、江戸は巨大都市のわりに経済圏は広がらなかった。いまの東京のように首都圏が一塊のメガロポリスになるような地形・交通条件ではなかった。

明治維新後、鉄道という陸運が全国に整備され、日本海・瀬戸内海と太平洋ベルトの勢力図が一変するのですが、それは次回。

 

 

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