従来の境界型セキュリティモデルは、「社内ネットワークは信頼できます、社外は信頼できない」という前提に基づいていました。しかし、クラウドサービスの普及、リモートワークの常態化、そしてサプライチェーン攻撃の増加により、この前提はもはや成立しません。
ゼロトラストアーキテクチャ(ZTA)は、「何も信頼しない、すべてを検証する」という原則に基づくセキュリティモデルです。ネットワークの場所に関係なく、すべてのアクセスリクエストに対して認証・認可・暗号化を要求します。
筆者は過去3年間で複数の企業のゼロトラスト移行を支援してきましたが、最も重要なのは技術的な実装よりも、組織の認識変革と段階的な移行戦略であると実感しています。本記事では、従来型VPNからゼロトラストへの移行を実践的な観点から解説します。
NISTが発行したSP 800-207では、ゼロトラストの基本原則が明確に定義されています。実装を進める前に、この原則を組織全体で理解することが不可欠です。
従来のVPNでは、一度認証に成功すれば社内ネットワーク上のリソースに広くアクセスできました。ゼロトラストでは、各リソースへのアクセスごとに認証・認可を行い、セッションの有効性を継続的に評価します。つまり「VPNに接続しているから安全」という暗黙の信頼を排除します。
ユーザーやデバイスには、業務遂行に必要最小限のアクセス権限のみを付与します。これはRBACやABACといったアクセス制御モデルによって実現されますが、重要なのは静的な権限割り当てではなく、コンテキスト(時間帯、デバイスの状態、アクセス元の地理的位置など)に基づく動的な判断です。
ゼロトラストでは、アクセスの許可は一度きりではありません。セッション中も継続的にデバイスのコンプライアンス状態やユーザーの行動パターンを監視し、異常が検出された場合はリアルタイムにアクセスを遮断します。
ゼロトラスト移行を成功させるには、現状の正確な把握が出発点です。
まず、保護対象となるすべてのリソースを洗い出します。オンプレミスのサーバー、クラウド上のサービス、SaaSアプリケーション、内部APIなど、組織が管理するすべての資産を一覧化します。意外に見落とされがちなのが、部門が独自に導入したシャドーITのSaaSサービスです。CASBツールを活用して、実際のトラフィックから利用サービスを把握することを推奨します。
次に、誰がどのリソースにどのようにアクセスしているかを分析します。VPNのログ、プロキシのログ、認証基盤のログを突き合わせ、実際のアクセスパターンを可視化します。この分析により、移行後に必要なアクセスポリシーの設計材料が揃います。
すべてのリソースを同時にゼロトラスト化するのは現実的ではありません。ビジネスへの影響度とセキュリティリスクのマトリクスを作成し、移行の優先順位を決定します。一般的には、外部からのアクセスが多いWebアプリケーションやAPIから着手し、内部システムは段階的に移行していくアプローチが推奨されます。
ゼロトラストアーキテクチャの中心にあるのは、強固なID管理基盤です。
Azure AD(Entra ID)、Okta、Google Workspaceなどの主要なIDプロバイダー(IdP)は、いずれもゼロトラストの基盤として十分な機能を備えています。選定にあたっては、既存のディレクトリサービスとの統合容易性、条件付きアクセスポリシーの柔軟性、対応するプロトコル(SAML、OIDC、SCIM)を評価します。
ゼロトラスト環境では、多要素認証(MFA)は選択ではなく必須です。パスワードのみの認証はいかなるリソースに対しても許可すべきではありません。FIDO2セキュリティキーやパスキーの導入を推奨しますが、段階的にはTOTPやプッシュ通知型の認証アプリから始めても構いません。重要なのは例外なくすべてのユーザーに適用することです。
ユーザー認証だけでなく、アクセス元のデバイスの信頼性も評価対象とします。MDM(モバイルデバイス管理)やEDR(エンドポイント検知・応答)との連携により、OSのパッチ適用状況、ディスク暗号化の有無、マルウェア対策ソフトの稼働状況などを検証し、ポリシーに準拠しないデバイスからのアクセスをブロックします。
従来のVPNに替わるアクセス手段として、ZTNA(Zero Trust Network Access)プロキシを導入します。Cloudflare Access、Zscaler Private Access、Google BeyondCorpなどが代表的なソリューションです。これらはアプリケーション単位でアクセスを制御し、ネットワークレベルの接続を必要としません。
ZTNAの大きな利点は、ユーザーがアクセスできるリソースのみが見える点です。VPNのようにネットワークセグメント全体が見えることはなく、攻撃者がラテラルムーブメント(横方向への移動)を行う余地が大幅に制限されます。
ネットワーク内部についても、ワークロード間の通信をマイクロセグメンテーションで制御します。従来のVLANベースのセグメンテーションとは異なり、アプリケーションのIDに基づいてポリシーを定義します。これにより、万が一侵入を許した場合でも、被害を最小限のセグメントに封じ込めることができます。
ゼロトラストへの移行は、一夜にして完了するものではありません。筆者の経験では、一般的な中規模企業で12〜18ヶ月程度の移行期間を要します。
既存のVPNを維持したまま、ZTNAプロキシを新たに導入します。まず社内のWebアプリケーションやSaaSへのアクセスをZTNA経由に切り替えます。この段階ではVPNはフォールバックとして残しておき、ユーザーの移行を段階的に進めます。
ZTNA経由でアクセスできるリソースを順次拡大し、VPNが必要なリソースを減らしていきます。レガシーシステムなどZTNA対応が困難なものは、踏み台サーバー経由のアクセスに切り替えることで対応します。
すべてのリソースがZTNAまたは代替手段でアクセス可能になった段階で、VPNを廃止します。この時点で、ゼロトラストポリシーエンジンによる動的なアクセス制御が完全に機能している状態を目指します。
最大の障壁は、モダンな認証プロトコルに対応していないレガシーシステムです。SAML/OIDCに対応していないアプリケーションに対しては、リバースプロキシを前段に配置し、認証レイヤーを外出しする手法が有効です。完全な対応が困難な場合は、ネットワーク分離と監視の強化で暫定対処し、計画的なリプレースを並行して進めます。
セキュリティを強化した結果、ユーザーの利便性が著しく低下してはなりません。過度な認証要求はユーザーの不満と回避行動(シャドーITの利用など)を招きます。リスクベースの認証を導入し、低リスクなアクセスではシームレスな体験を提供しつつ、高リスクなアクセスでは追加の検証を要求するバランスが重要です。
ゼロトラストアーキテクチャへの移行は、単なるVPNの置き換えではなく、セキュリティモデルの根本的な転換です。IDを中心とした認証・認可、デバイストラスト、マイクロセグメンテーション、継続的な監視を組み合わせることで、現代の脅威に対応した堅牢なセキュリティを実現します。移行は段階的に進め、ユーザー体験とのバランスを常に意識することが成功の鍵です。完璧なゼロトラストは存在しませんが、境界型セキュリティからの脱却を今始めることが、組織のセキュリティ体制を確実に前進させます。