西洋医学の流入と共に中国医学の衰退が始まり、西欧の植民地化が進む中で多くの文物が散逸し、実際の技術も喪失しつつあった。このような状況を受け、中華民国時代、袁世凱は中国医学の禁止を打ち出し、1925年に医学校での中国医学の教育を禁止、29年には第一次中央衛生委員会議にて中国医学の廃止案を批准した。これに対し全国的に反対活動を展開し、36年の中医条例で合法地位を獲得、37年には政府に中医委員会を設立させることに成功した[4]。
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