近代になり、『美容』という現代的な概念が生まれてからどのくらい経つのだろうか
今思うと人々の生活、暮らし、経済が発展していく、繁栄していく事だけが正義で優秀とされた社会設定の中では、今の美容の概念として生まれ、存在するということ自体は必要不可欠だったのではないかと思ってしまう
それは本質的な『美』の追及でなく、流行や見た目、それによる社会的な損得勘定、強いてはその人自身の人生すら美容的要素で大きく変動しかねない、人生に置いての重要事項となってしまっている気さえするからだ
これは個人の感想でなく、実際にそうなっている現実現状がどなたにおいても認識できるはず
あまり言いたい事ではないが、現代美容は多分に『金融経済』と大きく、深く結びついてしまっている
『美容に気をつかっている』
『美容意識が高い人だ』
こう聞くと無意識に誰しも
『ああ、美容にお金を掛けていて、要するにそれだけ稼いでいて金銭的裕福なのだな』
と思うはず
現状、美容にこだわろうとしたらそれはお金で購入できる商品やサービス、活動がほとんどであるし、選びきれないくらいのバリエーションがところ狭しと用意されている世界なのだ
美容と言いながら物理的に人体改造をしたとしても、、それはれっきとした美容であり、なんなら美の最骨頂といっても過言ではないのだろうか という認識さえある
誰しも『無料』で美しくなろうなどとは思わないし、お金を掛けないと綺麗になれないのが常識的ではないだろうか
要するに美容という意識は
『自らの外側に働く意識』ということになる
ここで大きな違和感があるのは私だけであろうか
率直に言えば
『美容とは自らの内側に意識を向け、お金を掛けずにできる究極な人間形成』ではないかなと思っているということだ
インスタントに出来る事などではなく、お金で購入することでもなく、他人と比較することなどとも当然違う
そう認識してきてしまった自分の美容業種としての人生、社会的役割がここ長らくの葛藤であり、また面白みとして仕事をさせていただいている
『美容』において、ここ2025年において、大きな変革の節目にきているのではなかろうかと期待と覚悟に包まれている
このような『本質』に人々の意識が向かって行く事が他業種や様々な業界にも現れてきている兆しのようなものが感じとれている
『お金重視』や『外側に向かう意識』
はすでに旧文明の価値観となってくるのだろう
人々が古い価値観に縛られ、自ら苦しみの世を形成している事に気付き、意識を変革し解放されてより本質的な自分、本質的な幸福、本質的な人生、世界に向かうタイミングはそう遠くないのだろうとなぜかわからないが確信してしまっている