当時日本では明治維新以降、西欧医学を導入して伝統医師の根絶策を進めたが、鍼灸だけは近代医学も教育した鍼灸師の形で存続し、科学研究も行われていた。鍼灸の伝統が途絶えていた中国は、日本に大きな刺激と影響を受けた[4]。中華民国における中国医学廃止政策に際し、政府に対して反論に利用されたのが、江戸や明治後の伝統医学研究書である。真柳誠の調査では、日本の鍼灸書の中国版出版回数は1934年に8回、35年に21回、36年に83回と急増するが、そのブームは日中戦争によって終わった[4]。また日本では、明治期になると伝統的な医学書は不要とされ、多くが清に流出したが、これには中国や朝鮮で出版された医学書も含まれていた[5]。