学生時代、あまり国語は好きではなかった。
文章からどういう心情が読み取れるかとか、本の内容を要約するとかいった内容は不出来だったように思う。
教育を施す組織が「国語の授業」を通じてどういったことを意図し、対象をどういった状態にしたいかということについて考えてみた。
尚、教育者としての経験は無い一個人の意見である。
①まず、読み書きができる状態にさせたい。
基本的な平仮名、カタカナ、漢字といったものを認識できる状態。
特に読む方が重要だ。会社では考えを書いて伝えるよりも通達事項を読む機会の方が多くなる。
②次に、文章に対してある一定の方向性の感想を持てる状態にさせたい。
同じ言葉が持つ印象の方向性を揃えないとバベルの塔になってしまう。
世間の一般常識を、教科書の文章を使って、その解釈を教えることで正解とする。
解釈が誤っていれば、再度問題を解かせて正解できるまで学習させる。
これらは情報を文書を通じて正しく伝達させるために必要である。
③更に、簡単な意図を文字で伝えられる状態にさせたい。
難しい思想や概念を伝達できる必要はない。三段論法のような単純な論理構造が使えれば十分な状態。
以上の内容から、会社のような組織で役立てるよう状態にさせたいという意図を見い出せる。
音声や文章で上記意見を認知したことはあるが、自分で考えていて同じ意見になると少し嬉しい。
私が違和感を持っていたのはこの辺りが原因だろう。周りに合わせるのは未だに苦手である。
ところで、文章を読めない人が多数いるという話を聞いたことがある。
文章を読むということは、文章から意図を読み取って自省し、次の行動に生かすことと考えている。
これは上記教育を受ける対象に求めている状態に含まれていないのではないか?
会社員として組織の一員として働きたい、働けるという人は学校の教育の範囲内で努力していくのも手だが、
組織で働くことの適性が高くないと感じた場合や個人として働きたいという場合なら、無理に学校に行かず他の場所で過ごす選択をした方が良かった。
今更反省している。
余談だが、道徳の教科書は国語よりも文章量が多かった記憶がある。
道徳って常識のことだなと、ふと思った。